時間というものは、物資という物理的なもの意外にも、思想など概念的なものまでも風化させる性質があるといえる。物理的なものは言うまでもなく、全てのものは、それぞれ差はあるものの時間がたてば風化し、朽ちてゆく。それぞれの差というのは、たとえば、手間隙かけて作り上げた良質なものは、その姿や機能は、大量生産された易価なものよりも一般的に長持ちし、持続する。人々も、自分が気に入ったものや、こだわりのあるものを選ぶとき、多少値が張るようなものであっても、殆どの人は良質なものを選ぶであろう。このようなことから、普段強く意識はしないであろうが、時間は物質を風化させる存在であるということは、人々は認識している。
この時間という風化させる性質は、何も物質だけに限られたものではないということだ。一番理解しやすい例というのは、文化である。文化というのは、古代からの習慣や考え方、技術や理論など、それらが集積され、ひとつの文化が生まれる。当然ながら文化が構造されるまで、時間がかかる。一世代で文化が構造されることもあるだろうが、たいていは少なくとも二世代、三世代という時間を要して、それらが習慣づけられる。この中で考慮する点は、前世代から次世代へと文化が推移する際、その文化そのものが良質でなければならないという点である。たとえば、人から何か考え方や技術などの魅力を薦められたり、教えられたりした場合、自分がその魅力を理解しなければ、それを進んで学ぼうとしたりしようとは思わない。商売であっても同様であろう。通年売れ続ける商品というのは、人々がその商品がよいと認めており、その魅力を理解しているからこそ、需要が発生するのである。何年何十年何百年もの昔から姿変わらず存在する商品というのは、時代にも左右されない強固なる本質な精神を持った特級品であると言えよう。
文化は、古代の人々から共感され、理解され、良質であるから代々伝えられ、今ここに存在するのである。愚なる存在は、時間という万物を風化させる存在によってたちまち朽ち果て、存在そのものが消えてなくなるのである。
無論文化というものは、常々創造されている。その中で良質なものは、今後はそれに共感され理解される人々によって定着し、伝えられていくことであろう。しかし、世の中には良だけが生まれるだけでなく、むしろ愚が多く生まれているように感じられる。溢れる物、溢れる書に述べられた諸説や理論、溢れるほど存在する技術が存在する現世で、今後末永く伝えられ、伝えるべき、本当に良質な存在を、人々はどれだけ見極めることが出来るのであろうか。ひとつだけ確実に見極める方法は、時間が過ぎた後に、それらがまだ残っていた存在がそうであるということである。時間がたってもそれが存在した場合は、人々によってそれらが支えられ、理解されうる、良質な存在であるという証明である。
新しいものというのは、確かに斬新で新鮮で、知らない刺激を与えてくれる存在であることは認められる。しかしそれが将来、本当に必要な存在であるかは、時間が経過しないと分からない。われわれのような愚昧な人であればなおさらこれを見極めるのは困難であろう。そのようであれば、まずは今存在する文化を学ぶことが重要であるり、それを学ぶことを先決しても遅くは無いと考える。今存在する文化は、間違いなく良質である。良質なものを学ぶことは、その行為自体が徳であるばかりか、本質を見極める能力を培うためにも必要であると考えられるからである。無論一言で語れるほど、この能力を培うことは簡単なことではないのは当然のこと、それを学ばなければ、良質を見極めることは当然難しいであろう。良質を知らずして、良質を選ぶことなど出来ないのである。
当然ながらわれわれは凡人である。良質を知りうるのはごく一部の人たちか、それを感じ取れる先天的な天才のみである。時間は無条件に良質のみを残す。そうであるが故に、われわれ凡人は、良質を見極める唯一の方法は、時間が経過しそれが残っているのを確認するのみである。
学んだ文化で、自分が本当に共感できる存在を見出したとき、それを極め、後世に伝えるのも良し、その共感にて新しい良質なものを創造するのも大いに良しであろう。われわれがまず出来ることは、時間という万物を風化させる存在に耐え伝えられた良質である文化を学ぶことである。
think 2008